いざというときの備えのために

防災グッズと体験談ブログ

地震体験

29年前の阪神淡路大震災で体験したこと、必要だと感じたこと

2017年3月26日

29年前の1995年1月17日。

当時住んでいた神戸の某地域で地震を経験しました。

家を失い、家族とともに現地で過ごした日々。

それまで経験したことのない被災地の体験や風景。

時間が経つにつれ薄れていく記憶・・

自らが体験した震災を忘れないようにしたい。

そんな思いをもとに、今回は震災体験記をまとめることにしました。

30年近い前の話で、ずいぶん記憶が抜けてしまっている部分があります。

できるだけ詳細に、記憶の時系列順に綴っていこうと思います。

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震災発生から脱出までの大まかな流れ

震災体験の「大まかな流れ」から始めていきたいと思います。

震災当日のことになります。

その日は、前日から友人宅に泊まっていました。

前の晩に何気なく昔の友人の下宿に遊びに行く気になり、家を出たのです。

その夜は友人たちと夜遅くまで酒を飲んだり(成人は越えていましたので^^)、懐かしい話をしたりして、一晩中起きて過ごしていました。

そして明け方の5時40分。

「おれ、もうそろそろ寝るわ」

と友人が先に布団に入って寝ようとしたので、私も「じゃあ、俺も」といって、そのまま炬燵に入ったまま寝ころぼうとしたその時でした。

「ドドドッ!」

地響きのような音とともに最初の揺れがきて、次に激しい縦揺れがアパート全体を襲ったのです。

木造のアパートだったので、激しい揺れとともに、壁が剥がれ落ちて柱も相当軋みました。

幸い倒壊するまでには至らなかったので、なんとか皆で外に出ることはできました。

友人宅から自宅に戻ると、周辺はまるで空襲を受けた後のような状態になっていて、「これは皆死んだな・・」と愕然としました。

ただ本当に幸いなことに、家族はもちろん、ご近所さんにも奇跡的に人的被害はなく(軽い怪我は別にして)、家屋の倒壊だけで済んでいました。

その後、知り合いの家に泊めてもらったり、当時借りていた立体駐車場の地下で寝泊まりしていたりと、2週間ほど避難生活を続けていました。

被災直後の町はまさに戦後のような荒廃した状態にありました。

自衛隊が到着して救護・救助活動が始まり、自治体の支援が行われ出してからは、徐々にですが、街の復興とまではいかないでも、秩序のようなものが生み出されていったような気がします。

そして震災発生から3週間後(正確な時期は忘れましたが)。

大阪で住む場所が見つかったので、車で神戸を後にすることになりました。

ここまでが震災体験当初から最後までの大まかな流れです。

次からそれぞれの細かな体験を語っていきたいと思います。

激しい揺れが起こった際の行動と経過

友人宅で揺れを経験した時は、先ほど触れたように、まず最初の第一波は「横揺れ」でした。

そのときは普通にトラックが通った時の揺れだと思っていたので(国道沿いの車通りが激しい場所だったので)、気にせずにそのまま寝ようと思っていた矢先。

第2波の「ドーン!」という激しい縦揺れが来たときは、完全に地震だと認識しました。

たまたま夜中じゅう起きていたので、すかさず目の前のこたつの中に頭を突っ込んで隠しました。(今思えば「頭かくして尻隠さず」の典型ですが・・)

なにせ相当古い建物でしたから、直感的に「これは天井が落ちてくる!」と感じたのです。

激しく続いた縦揺れが収まった後は、部屋中に散乱した友人の私物をよけながら、アパートの部屋から脱出しました。

外では自分たちと同様に家から脱出してきたご近所の皆さんが、寝間着姿で集まっていました。

お互い知らない者同士ながらも、無事を確認して安心しつつ、駐車していた誰かの車のラジオを聞いて、激しい地震が神戸を襲ったことを知りました。

震災直後の街の状況

皆で事態の深刻さに唖然としている中、私は周りの友人を見渡して「おれ、とりあえず家に帰るわ」と呟くように伝えました。

友人たちも「それがええな」と頷き、各自それぞれの家に帰ることになったのでした。

そうして友人宅から自宅まで戻る間、私は徒歩で帰路についたのですが、その途中で見る風景はまさに写真でよく見た空襲直後の街そのものでした。

建物の倒壊はもちろんのこと、電信柱や看板が道路に倒れていたり、ブロック塀が崩れていたり・・・

それまで見たことがない惨状に言葉を失ったものです。

それでも勇を奮い起こして自宅に戻ると、かつてあった自宅の周りは、今まで見た以上に悲惨な状態でした。

ご近所の全ての家屋は倒壊し、道路には倒壊した家屋の柱やガラス破片、木枠など、さまざまなものが散乱して足の踏み場もないほどの有様。

幸い、私は外に泊まりに行っていたので、普通の靴を履いていて無事に歩けたのですが、自宅で寝ていて靴を失った人などは、外での移動にはひどく難渋したのでないでしょうか。

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自宅の家族はなんとか倒壊した玄関の中から靴を取り出して移動していましたが、靴を取り出すまでは、外に飛び出した屋内用スリッパを使って行動していました。

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そうして家族の無事を確認した後は、ご近所の救出に向かうことにしたのでした。

ご近所さんの救出

実家の付近には倒壊した建物の中に生き埋めになった方がおられたので、ご近所の皆さんと協力しながら助け出すことにしました。

このときの先導役は、当時はまだ学生で若かった自分ではなく、壮年の自治会の方。

皆で力を合わせて邪魔になっている廃材をよけたり、手をつなぎ合って命綱代わりにして先導役の人が倒壊した家屋の中に入っていき、なんとか埋まった人を救い出すことができました。

本来なら何の訓練も装備もない素人が、倒壊するかもしれない家屋の中に入って救助活動をするのは大変危険な行為です。

下手をすれば、助けに入った自分たちも、倒壊してくる建物の下敷きになる可能性もあります。

ただこのときは緊急時でしたし、消防や警察などの救援も望めない状況だったので、自分たちでできることをするしかありませんでした。

そのときの教訓としては、ちゃんとした装備があれば、ケガのリスクがずいぶん減少しますし、救助できる可能性も高まるということです。

さらに普段からの体力作りも重要なファクターになるということも、このときの作業中に痛感しました。

その後、近くの屋外駐車場で皆で火を囲みながら「これからどうなるんやろな・・」と静かに語り合ったことを今でも強く覚えています。

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震災直後の食事

直後の3日ほどは、知り合いや友人の家で食べさせてもらっていました。

ただその期間は私は家族と離れて行動していたので、家族はおそらくご近所のみなさんと協力し合ってなんとかしていたと思います。

しばらくして友人・知人の家を辞した後は、駐車場の地下で避難していた家族と合流し、何日かそこで一緒に過ごすことになりました(4~5日だったと記憶しています)

その後、行政や自衛隊から救援物資や水の供給があったので、それで飲食料をつなぐことができました。

とはいえ救援物資に関しては、基本的に物資の種類は決まっていて、覚えているのは「ソーセージの総菜パン」「おにぎり」「お茶のペットボトル」の3~4種類が定番。

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正直いって、途中で食べるのに飽きてきた覚えがあります。

贅沢なことですが、やはり人間、慣れてくるとわがままを言うものですね(汗)

ほかにも動き回った後に疲れて甘いモノが欲しくなってきたりと、少し不便に感じたこともありました。

後で勉強したことで分かったのは「人間は疲労がたまったり、ストレスを感じると脳を使うので、甘いもので脳の栄養を補給するとよい」ということで、このときも身近に甘いモノがあれば、体力の回復やイライラ感が少しはマシになっていたかもしれません。

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後日に親戚が避難所までわざわざ訪ねて来てくれて、温かいみそ汁やおにぎり、おかず、お菓子を持ってきてくれたのは本当に助かりました。

特に当時は真冬の時期だったので、温かい食べ物は体や心に本当に染みました。

温めるための燃料ですが、避難先の駐車場で集まったご近所さんと協力して、お互いの家に合ったにガスコンロなどを持ち合って使っていたと思います。

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震災直後の防犯状況

住んでいた自宅から少し離れたところに銀行があったのですが、震災の直後に何者かが侵入して中の金庫を奪っていったという噂が流れていました。

後に噂ではなく本当のことだったと知り、平和な街でも災害時にはそのようなことが起こるのだなと嫌な気分になったことを覚えています。

また震災から3日ほど経過した後に、神戸の中心地である三ノ宮に友人と立ち寄りましたが、普段なら人通りも多くて賑やかな文化の中心地のセンター街(ファッションやレストランなどの店舗があるアーケード通り)の入り口にバリケードが張られていて、付近に自治組織のような方たちが警備されているのに驚きました。

「まるでマッドマックスの世界だな・・」

それを見て友人とつぶやき合いましたが、まさにその表現がふさわしい状況で、本当に厳重にセンター街を守っているという感じでした。

やはり強盗団のようなものが、当時の神戸の街にも出没していたのでしょう。

実際に自治会の方たちとお話しして、大阪や他の地域から、その手の連中が震災直後の神戸まで遠征してきているという話も聞きました。

ほかにも普段から治安のよくない地域で、夜に車でその地域を通りかかった知人が信号停止待ちしていると、いきなりバットをもった連中が出てきてボンネットを叩きだしたので、急いで発車して逃げたとかもありました。

さらに他地域から震災のボランティアで来ていた女性が襲われたとか、友人が自宅にいるときインターホンが鳴って出てみると「トイレを貸してくれ」と男性が訊ねてきて、その後ろを見ると、大きめのバンから複数の男がぞろぞろ降りてきて有無を言わせず入ってこようとする素振りを見せたため(屋内に家族がいるにも関わらず)、慌ててドアを閉めたとか、震災直後からしばらくしてまでの期間に、本当にいろいろな話を聞きました。

災害が起きた時のニュース報道ではほとんど取り上げれないことばかりですが、治安が良いと思われる日本でも、こうした非常時では陰でけっこう多くの事件が起こっています。

被災地は警察機能がマヒしているので犯罪者が跋扈しやすく、そのために力の弱い女性やお年寄り、子供が狙われやすくなります。

普段の感覚で行動していると非常に危険だということを実感しました。

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衛生面での状況

震災直後はもちろん水道も電気もストップしていました。

そのために基本的には水は貯めていたり、保存していたもので乗り切っていました。

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街中のスーパーやコンビニでは特別に開放して商品を無料で提供してくれていましたが、人々が殺到していたので、自分たちは利用しませんでした。

ただ知人や友人で市内でも無事な方たちの助力があったので、なんとか物資に困らないで済みましたし、途中から救援物資が到着し始めたので、食料や水にはそれほど困ったという記憶はありません。(都会だったので可能だったのでしょう)

困ったのはやはりトイレです。

なにせ水洗が使えないので、貯めていた水を水洗代わりに便の上から流していました。

携帯のトイレなどがあると便利だと思いますが、このときはそういう概念もなかったので・・

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あと歯磨きですが、当時はあまり気にしなかったので、積極的に磨いたという記憶がありません。

今思うと不潔そのものですがね。

ただ若くて健康でしたし、緊急事態ということもあったので、体の方もそれに対応していたのかもしれません。(後に歯が悪くなったのも、このときに変な習慣ができたせいなのかも)

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トイレに話を戻しますが、貯めていた水が足りなかったり、無い場所では、大便は流せないので、汚い話になりますが、新聞紙に包んで街に準備されたゴミ捨て場に捨てていました。

これは当時が冬場だったからできたことですが、もし春や夏場だと腐敗が進んで疫病などが流行するでしょうから、今思うと本当に運が良かったといわざるを得ません。

匂いを防ぐポリ袋があれば臭気は防げるので、普段から緊急時のために揃えておくのが良いと思います。

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ほかにも避難していた駐車場の地下は、トイレ付近が遺体置き場になっていて、夜中にトイレに起きてそこに行くときに誤って踏んでしまったこともありました。

すぐに手を合わせて「すいません」と謝りましたが・・・

これも夏場だと遺体の腐敗が深刻になっていたでしょうから、冬場での震災ということが幸いしたと思います。

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震災時の移動手段

震災直後は電車はもちろん止まっていますし、車も道路がめちゃくちゃな状態になっているので、基本的に移動は徒歩でした。

父親は大阪に勤務していましたが、西宮まで徒歩で歩いて行ってそこから電車に乗り換えて会社に向かうという、毎日修行のような通勤状態を続けていて、本当に大変だっただったと思います。(後に週に数日の勤務に替えてもらっていたと聞きました)

街中での移動では、友人がオートバイを持っていたので、ちょっとした買い出しや、視察などは、この友人のバイクに乗せてもらって移動することもありました。

二輪は非常に便利で、車が通れないような場所でも(道路状況が最悪なため)スイスイ通れる利点がありました。

ただ問題はバイクを動かすには「オイル」が必要なので、それはやはり北区(神戸市北区。六甲山を越えた市の北側)のガソリンスタンドとか、もう少し外れた地域まで買いに行かないといけなかったようです。

私はその友人からマウンテンバイク(自転車)を貸してもらい、避難中、少し離れた場所に行くときは自転車で移動するようにしていました。

ただ途中でパンクしてしまったので、結局徒歩に逆戻りでしたが・・・

しかしマウンテンバイクは非常に便利で、移動が困難な道でもスムースに勧めるので、ガソリンを必要しないという意味でも、経済的にも行動的にもかなり使えるツールだという実感を得ました。

やはり移動距離とか積載量や安全面を考えると、断然「車」が移動手段としては最強です。

ただそれも道路がある程度使えるようになるという前提が必須ですので、災害当初のインフラが整っていない時期は、荷物の運搬や移動には二輪車がベストかなと思います。

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避難生活のその後

2週間ほど被災地で過ごした後、大阪に住む親せきが住む場所を提供してくれると伝えてきたので、家族皆で移動することになりました。

家族で乗っていた車は無事だったので、車で大阪に向かうことになったのですが、これがまたものすごく大変でした。

大阪に至る国道は同じように避難する車でごった返していて、神戸を出発してから数時間もまったく前に進まない状況が続きました。

このあたりのことと、大阪に移った後の話はこちらの記事で書いていますので、良ければご覧ください。

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最後に

以上が、震災直後とその後に経験したことの大まかな体験談、当時「あったらよかったな」と感じたツールの紹介になります。

体験談に関しては、本当はもっと色々あったのですが、書けないことも多々あり、すべてを綴るのは難しく感じました。

当時の神戸では地震はあまりなく、あってもたまに小さな揺れがある程度で、このとき市全域に渡って大きな地震が街を襲うことになるとは夢にも思いませんでした。

そのせいか神戸市の行政も時の政府も対応が後手後手に回り、必要だった支援や救援活動が遅れることになり、貴重な人命が失われたケースも多々あると聞いています。

実際に震災直下の町では家屋の倒壊はもちろんのこと、地震によって発生した火災による被害も相当あり、神戸全体に渡ってすべての機能がストップする事態となりました。

それから十数年、また二十数年後に、東北や熊本で大きな震災や津波による被害が発生し、自然災害やそれとにもなう人的災害の恐ろしさを認識することになりましたが、それらを通して痛感したこと・・・・

行政や国に頼るだけでなく、普段から自分で準備を整えていくことの大切さ

です。

もちろん個人で出来ることは限られています。

それでも前もって準備することや、事前に災害を想定することによって、抑えられる被害もそれなりにあるのではないでしょうか。

多くの方が亡くなった震災で、20数年経過した今でも、ご家族や愛する人を失った悲しみから立ち直れないという話をお聞きします。

そうしたことを耳にするにつれ、震災復興の難しさをまざまざと思い知らされます。

こうした悲しみを再び産み出さないためにも、個々人でも可能な限りの防災対策を普段から進めておく必要があると強く思います。

首都直下型地震、南海トラフ沖地震など、これから高い確率で起こるだろう大災害に備えて、今後も防災に関する情報を、受信と発信の両方で続けていくつもりです。

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