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地震体験

被災地からの脱出、新しい生活へと進んだ体験談【阪神淡路大震災】

2020年9月1日

前回の震災体験記事では「地震が起こった時のこと」「震災直後の生活」を中心に綴っていました。

【災害体験】20年前の阪神淡路大震災で体験したこと、感じた事

記事の最後のほうに「被災地から離れて新しい生活を始めるために移動した」ことについて少し触れています。

今回はそのことについて語れる範囲で詳しく述べていこうと思います。

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神戸からの脱出

被災から2週間後、新しい場所で生活する目途がついたため、神戸を離れることになりました。

それまで友人や知人の家、駐車場の地下で生活していたので、やっと普通の家で暮らせるという安ど感が家族全員を包んでいたと思います。

新しい場所は大阪。

親戚が暮らしていて、家に空き部屋があるので、しばらく暮らしてみればどうか?という提案があり、お言葉に甘えることにしたのです。

ただ私は大学の授業が3月ごろに再開すると聞いていたので、そこから大阪から通うのは難しいと考え、学校の近くに会った学生寮に住むつもりでいました。

とりあえずは一端、親戚への挨拶も兼ねて、家族と一緒に大阪に向かうことになりました。

移動手段は車です。

それまで契約していた月極パーキングが屋外だったので、震災による建物倒壊など影響を免れていたのはラッキーでした。

車の移動ということで「道路事情は大丈夫なのか?」という疑問はあるでしょうが、建物の倒壊が多かったとはいえ、道路そのもの状態はそこまで悪くなかったのです。

ただ震災から1週間ほどは主要道路にはまだまだ瓦礫が散乱していて、車が走るには障害物が多かったのですが、自衛隊が到着してから瓦礫などの撤去作業を行ってくれたこともあり、私たちが神戸を離れると決めた2週間後には普通に移動することが可能になっていました。

倒壊した家から家具や荷物、貴重品、思い出の品などを取り出す作業を2週間かけて行い、もはや神戸の地には古い友人や知り合い以外は思い残すものはなくなっていました。

いや、そう思っていたのは自分だけかもしれません。

母親は生まれてからずっと神戸で育っていて、実家も近かったので、住んでいた町やご近所にはすごく愛着があったようでした。

なので最後までなんとかそこで生活を再開しようと頑張っていたのですが、家がほぼ完全に倒壊していたこと、その家が借家だったので、大家さんが取り壊しを決めていたこと、さらに父親の勤務先が大阪だったので、交通事情が極端に悪化した神戸から通勤するのは非常に厳しかったことがあり、結局は大阪行きに了承したのでした。

ただ最後まで母親が「寂しいなあ・・」と離れ行く神戸の街を車の中から眺めながら呟いていたのはすごく印象的でしたし、今でもそのことを思い出して話したりもします。

とはいえ、当時の私はお気楽な大学生で「新しい環境で生活できるわ!」と、むしろ飽き飽きしていた地元の街から離れられることを喜んでいた節もあります(ひどい話ですが苦笑)

そんなこんなで家族の思いを乗せた車を父親と私で交互に運転しながら、新しい住まいの地「大阪」に向かうことにしたのです。

大阪までの道のりは険しかった

それまで生活していた地下駐車場で車に荷物を放り込み、私と父親と母親、祖母を乗せて、大阪に向けて出発することになりました。

共に生活したご近所さんにも挨拶して、再会を約束した後、登坂のスロープを上がって道路に出て、国道2号線で大阪方面に向かいました。

大阪までは約40キロで、高速なら30~40分あれば着きますし、地道でも1時間もあれば問題なく行ける距離でした。

しかしこの時は事情が全く違っていたのです。

というのも、凄まじい交通渋滞に巻き込まれたから。

幹線道路は私達と同じように、神戸から脱出しようと大勢の車がひしめき合っている有様で、とても前に進めるような状態ではありませんでした。

なにせ10メートルを進むのに30分もかかっていたくらいなのですから、午前9時に出発して大阪に着くまでに一体どれくらいかかるのか想像もつかないくらいでした。

「これはまずいなあ・・」

父親と顔を合わせながら呟きます。

混むことは予想はしていたのですが、まさかここまでとは思っていなかったからです。

困ったのは進まないことだけではなく、ガソリンの量や祖母の「おしっこ」の状態でした。

ガソリンは震災が起きてから一回も給油することなく、それ以前の量のままでした。

満タンから考えると「6割」くらいの量はあったのですが、それでもここまで遅々として進まないと、どこかで給油しないといけない時がくるかもしれませんし、神戸市内でガソリンスタンドが開いていないこともありえたので、結構「危ない」状態ではありました。

さらに祖母の頻尿がそれ以上に困ったことで、母親は自分の母親だからか、遠慮なしに「もう水とかお茶飲んだらあかんで!」とめちゃくちゃなことを言って、祖母や私と父親を苦笑いさせていました。

そんなこんなで色んな不安を抱えたまま、私達家族を乗せた車は止まったり進んだりを繰り返しながら、一時間に1キロのペースで大阪に向かっていったのです。

遅々として進まない車の窓から見えるのは、震災の影響が生々しい国道沿いの神戸の街。

多くの家屋が倒壊し、自衛隊や消防団らしき人たちが頻繁に移動している光景を皆で「・・・・」と言葉も出さずに、じっと眺めていました。

そんな光景が延々と続く中、自衛隊の隊列が粛々と瓦礫の横を進んでいく姿を目にして「頼りにあるなあ」と眩しく思えたことを今でも覚えています。

そうしてさらに進むこと数時間。

ようやく「業平橋」にたどり着くことができました。

業平橋は神戸の隣にある芦屋市との境に位置する橋で、いわば市境に当たる地点です。

ここまでくれば、震源のど真ん中である神戸からは一息ついた場所になるといえます。

ただ普段なら神戸から芦屋までは15キロほどの距離で、車であれば普段だと20分で着く距離。

そのときはすでに昼の3時を越えていました。

朝9時に出発して6時間の経過です。

一体どれくらいの込み具合だったか分かろうというものです。

なので「やっとここまで来れた・・」と皆でホッとしていました。

実際にここまでくると震災の影響は随分と減っていて、車の窓からは人々の暮らしも日常のままの光景が見られました。

車の流れも一気にスムーズになり、それまでの尋常でない込み具合が嘘のようになくなって、そこから先は普段通りのスピードで大阪に向かうことができました。

一番恐れていた祖母の「頻尿」をどうやって抑えたのかは正直、あまり覚えていないのですが、たぶん芦屋からどこかでコンビニに立ち寄ってトイレを借りたのだと思います(残りの私達家族も同様に)

そうしてさらに車を走らせること2~3時間余り、途中でガソリンを給油したり、食事をしたりして、目的地の大阪の親戚の家に到着したのは、夕方の6時前ごろになっていました。

神戸の避難所を出発してから9時間少々の脱出行の結果です。

出迎えてくれた親戚の優しさに涙した

家に着くと、すぐに親戚は出てきてくれて「無事でよかった」と暖かい言葉をかけてくれました。

この親戚のおばさんは被災直後にも現地に駆けつけてくれて、温かい食べ物や飲み物を差し入れてくれていました。

あの当時は西宮までしか電車が通っておらず、神戸に来るにはそこから徒歩で向かわないといけない状態だったにも関わらずです。

西宮から神戸前は16キロほど。

車だと30分あたりで来れますが、徒歩だとその苦労は大変なものです(おそらく3時間以上はかかる)

そんな苦労を掛けてくれた叔母さんと叔父さんに再びお世話になるのですから、私も両親も祖母もしきりに恐縮と感謝の言葉を繰り返していました。

その日から一月ほど祖母と両親はその親戚の家で暮らすことになるのですが、私はその日の夜に大学の親友である大阪在住の友人の家に訪ねることになっていました。

友人は実家の近くにマンションを借りていて一人暮らしをしていて、私が神戸から大阪に移動すると伝えたときに「良かったら、しばらくこっちでいたら?」と提案してくれていたのです。

もちろん友人のご両親も快諾してくれていて、有難いなと思いつつ、その言葉に甘えて、2週間ほどそこで生活させてもらっていました。

それから一度大阪の親戚の家に戻り、両親と祖母が市内でマンションの部屋を借りて生活を再建することや、私の大学に寮があるので、そこに入る手続きをすることなどを話し合い、再び大阪を後にしたのは、それから3日後のことでした。

別々の生活に

震災発生から2か月後の3月終わりごろ。

両親と祖母は大阪市内のマンションで暮らし、私は大学近くにある学生寮で生活を再開していました。

大学は被災地から電車で2時間ほどの場所にあったので、震災の影響からは免れていました。

通っていた頃は「遠いなあ」とぶつくさ文句をいっていたのですが、結果的にはその距離が幸いしていたのです。

それから2年間、卒業するまで学生寮で暮らすことになり、両親と祖母はそのまま大阪で部屋を借りて生活は別々になりました。

社会人になってから、一度両親の暮らすマンションで一緒に生活していましたが、そこでも火事が起きたりと地震以外の災害に見舞われることになるのは、そのときは知る由もありません。

【火災体験談】自宅マンションが火事になった時の話

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大学で残りの学生生活を送っている時に、かつて住んでいた神戸の街を何度か訊ねたことがありました。

ご近所さんもほとんどが引っ越されていて、かつてあった家も取り壊されて新しい別の家が建っていたりして、もはや昔の面影は残っていませんでした。

母親が買い物に出かけていた商店街も取り壊されてショッピングモールになっていたり、子供の頃によく遊んだ公園や、通っていた小学校や中学校も建て替え工事が行われていて、新しい町に生まれ変わろうとする雰囲気を感じました。

それでも裏道や道路の区画、ちょっとしたお店などはまだ健在だったりして、そこで「懐かしさ」を少しばかり感じていました。

最後に

あれから25年経ちますが、今でも子供の頃に遊んだ路地裏や公園の情景をはっきりと思い浮かべることができます。

その多くは震災の影響で取り壊されたり、改築されたりしていますが、それでもまだたくさんの思い出の場所は残っています。

そんな思い出の街からの脱出行。

芦屋から大阪に至るまでの道程や、大阪に着いてから立ち寄ったレストランで、母親が言った言葉が印象的でした。

「私らは着のみ着のままやのに、街の人は普通の恰好でなんかすごく場違いな感じがする。心なしか私らを見る目も冷たいしね。でもこれが被災地とそうでない場所の現実的な違いなんやろなあ」

母親は見たまま、感じたままを正直に漏らしただけでしょうが、私には何か「深い言葉」のように思えました。

人間というのは自分の肌感覚でしか物事を理解できない。

それは良い悪いではなく、人として当然のことなのだと。

だからこそ、困っている人に親身になって手を差し伸べる人々の「優しさ」が身に染みるのだと思います。

9時間近くの車の移動は大変でしたが、出迎えてくれた親戚や友人の暖かさにホッとしたり、慰められたりしました。

人は人によって救われる。

そんな思いを実感できた貴重な体験だったと今では思っています。

最後になりますが、震災で犠牲になられた方のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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