私が被災した阪神淡路大震災から20数年なります。
20年以上という月日は決して短いものではなく、30年で一つの時代の区切りと言われるほどで、それに近いまとまった歳月だったと思います。
当時は私も20代前半だったので、震災までの年月よりも長い時間を過ごしていることになりますね。
あのときから変わっていないことは自分の中にあるのか?
いまだに忘れられない思いが残っているのか?
今回は個人的な内容になりますが、そんな一人の元被災者の思いを、当時を振り返りながら語っていきたいと思います。
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1995年1月17日5時46分ですべてが変わった
それまでに感じたことのなかった縦揺れで被害の大きさを直感した震災直後。
当時滞在していた友人宅の被害の様子から、街にかなりのダメージが出ていると感じました。
とはいえ、まさか町全体が空襲を受けた後のように破壊され尽くしていたとは、このときは想像できなかったのです。
私が住んでいた地域は最も被害が大きかった東灘区と灘区の間に位置していたので、やはり被害も相当に大きかった。
特に自分の家やご近所さんは木造建築ばかりだったので、ほぼ壊滅状態でした。
そのあたりのことは詳しく体験記事に書いています。
29年前の阪神淡路大震災で体験したこと、必要だと感じたこと
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自宅はほぼ全壊し、親戚の家や友人の家もほぼ同じような状態でした。
このときに初めて「住んでいた町から離れないといけない」という思いになったのです。
当たり前ですが、住めるような状態ではない自宅の周りで避難していても、どうしようもない感じでした。
当時は大きな余震がくるという噂もあったので、一刻も早く神戸の街を離れないといけない、そう私は強く思っていました。
もちろん地元には子供時代からの友人や知人が多くいます。
全員の家が壊滅したわけではなく、軽い損傷で済んでいる友人もいました。
なので、そこから離れるというのは、生まれてから20数年間住んでいた街を捨てるということになります。
しかし私はその当時若かった。
20代前半の学生で、むしろ「新しい環境で暮らせる」と喜んでいたのです。
離れたがらなかったのは母親でした。
母親は神戸の街で生まれ育って、40数年間(当時)同じ町で暮らしてきたのです。もちろん母親の両親や親戚も多くいました。
父親は別の地方から就職のために引っ越してきたので、そこまで町に愛着があるという感じではありませんでした。
むしろ会社が大阪にあったので、通勤するのに便利な大阪に越すことを望んでいたと思います。
私や兄弟は皆若く、どちらかといえば父親よりの考え方でした。
なので、実際に神戸の街を後にするときに、父や私たち兄弟と母親との間に見えない壁ができていたと今では思います。
私自身は仲の良かった友人も無事でしたし(中学時代のクラスメートの一人は亡くなっていましたが)、幼馴染の多くは別の地方で下宿生活を送っていたので、少なくとも自分の周りに関しては地震で失ったものはとくにないと感じられたのです。
それは私の兄弟や父親もそうだったでしょう。
母親だけがまた違った感覚で神戸の街の有様をとらえていたと思います。
震災で失ったこと、得たこと
比較的無事だった家族の間ですら見えない葛藤があったのだとすれば、近親者で犠牲者を出したご家族が感じる思い、ら悲しみの思いは言葉に尽くしがたいものがあると思います。
両親の知り合いの息子さんが地震で家が倒壊した時に家具に挟まれて逃げることができず、亡くなったということを震災後少しして聞きました。
両親はそのご家族と親交が深かったので、その知らせを聞いたときはかなりショックを受けていました。
私は子供の頃に少しだけ顔を見ただけなので、そこまでの思いや感情は湧きませんでしたが、それでも見知った人が地震で亡くなるという事実はかなり重かったです。
私や私の家族が震災で失ったものは、家やお金といった「物」はもちろん、私と兄弟・父親は「ほんの少しの思い出」、母親は「幼いころから慣れ親しんだ故郷」になると思います。
とくに母親は新しい住居に移り住んだ時も「戻りたいなあ」と常々言っていたので、あのときよりも年を経た今でもその思いは残っていると感じます。
逆に震災で得たことといえば、少なくとも私に関しては「新しい環境」「新しい環境で作った人間関係」にあたるでしょうか。
当時は大学生だったので、震災の特例で特別に学校の寮に住むことができるようになったので、そこで得た友人は今でも交流があります。
そしてもう一つ大きいことが「震災の経験」とでもいうべきでしょうか。
地震の経験、それも町全体を破壊するほどの大型地震を経験することは、普通の人生ではあり得ることではありません。
多くの命や財産を奪った大震災は悲しみと苦しみを神戸の街にもたらしましたが、そんな中で本当に幸いにも生き延びることができたというのは、何かの意味があるのではないか、と震災後からしばらくしてしみじみと感じるようになりました。
震災直後や一年かそこらの間は、自分たちが生き延びること、生活の基盤を再建することが最優先だったので、そこまでの思いには至りませんでした。
しかし少し落ち着いてあの頃のことを思い返すようになると、そういった「生き延びることができた幸運と与えられた命の使い方」のようなものを考えるようになり、自分なりに色々と思いにふけったり、ちょっとしたボランティアに参加するようにはなりました。
とはいえ、やはり自分の生活が優先されがちで、そういった「難しいこと」「悲しいこと」はどうしても過去のこととして、あえて見ないようにする日々もありました。それは今でも変わるものではありません。
それが私自身の弱さなのか、それとも人間としての当たり前の感覚なのかは分かりませんが・・・・
でも時々振り返ることがあります。
失った故郷の町。
今は別の人が住む子供の頃の家。
もう二度と戻らないだろう、懐かしい路地や公園。
学校時代をともに過ごした友人たちとの思い出。
そして震災の瞬間とその後の避難生活の日々。
忘れていたと思いがちでも、ふとするときに甦る瞬間があります。
それは悲しいとか、苦しいとかの感情を伴ったものではなく、あくまで「風景」。
それもこれも、私が被災当時に「若かった」せいでもあるでしょう。
その後の生活を、今に至る道筋をつけるために自分なりに懸命に生きてきた時間が、過去の記憶を薄らがせているのかもしれません。
しかし神戸の街で長い間、生活や思い出を紡いできた方々にとっては、私は「風景」にしかとらえていないかつての思い出を、深く色濃い感情を伴ったものとして捉えているはず。
私も当時の両親の年齢に近くなった今になって、ようやくそういった思いを少しは感じ取ることができるようになってきています。
それが震災後二十数年を経て「得た」ものだとすれば、人は時間を経過することでしか分かりえない何かがあるのかもしれないと感じることがあるのです。
2021年の震災の集いに行ってきました
26年目になる2021年も、阪神淡路大震災の追悼の集いに参加しました。
今年はコロナ感染の危険があるので、そこまで多くないかなと思いましたが、去年よりは少し少なめな感はあるものの、それでも大勢の方が集まっていました。
ろうそくに火をつけたり、灯篭の炎の前で手を合わせていたりと、それぞれが思い思いの追悼の意を示されていたと思います。
私も合掌して黙祷を捧げ、犠牲者のご冥福を祈らせてもらいました。
愛の一文字。
この言葉を胸にこれからも想いや記憶をつないでいきたいと思います。
2022年の震災の集いに参加しました
2022年の「震災の集い」に参加してきました。
今年は去年に引き続きコロナがまだ収まらないだけでなく、オミクロンという新たなウィルス種の蔓延も危険視されている中での開催です。
そのためか人流を少なくするために、今年は集いの開始を昨日から始めたということのようです。
私は1月17日の午後5時半過ぎに現地に到着しました。
すでに多くの人が集まっており、到着してすぐに黙祷が始まりました(5時46分頃から)
震災が発生した時間ですが、実際は午前中だったので、最初は「え?」と。
ただこうやって皆が集まる時間というのは「日中しかない」ということにすぐに気づきました。
静かに目を閉じ、しばしの静寂に心を委ねる瞬間。
犠牲になった方々への追悼と、今こうやって生きていることへの感謝の念。
すべての方の心に平穏が訪れることを願いつつ、祈りを捧げさせてもらいました。
この竹灯籠の灯が全ての人の心を照らし続ける光であることを願っています。