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震災から26年経って思うこと・感じること【阪神淡路大震災】

2021年1月16日

私が被災した阪神淡路大震災から今年で26年目になります。

26年という月日は決して短いものではなく、30年で一つの時代の区切りと言われるほどで、それに近いまとまった歳月だったと思います。

当時は私も20代前半だったので、震災までの年月よりも長い時間を過ごしていることになりますね。

あのときから変わっていないことは自分の中にあるのか?

いまだに忘れられない思いが残っているのか?

今回は個人的な内容になりますが、そんな一人の元被災者の思いを、当時を振り返りながら語っていきたいと思います。


1995年1月17日5時46分ですべてが変わった

それまでに感じたことのなかった縦揺れで被害の大きさを直感した震災直後。

当時滞在していた友人宅の被害の様子から、街にかなりのダメージが出ていると感じました。

とはいえ、まさか町全体が空襲を受けた後のように破壊され尽くしていたとは、このときは想像できなかったのです。

私が住んでいた地域は最も被害が大きかった東灘区と灘区の間に位置していたので、やはり被害も相当に大きかった。

特に自分の家やご近所さんは木造建築ばかりだったので、ほぼ壊滅状態でした。

そのあたりのことは詳しく体験記事に書いています。

【地震体験】22年前の阪神淡路大震災で体験したこと、感じた事

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自宅はほぼ全壊し、親戚の家や友人の家もほぼ同じような状態でした。

このときに初めて「住んでいた町から離れないといけない」という思いになったのです。

当たり前ですが、住めるような状態ではない自宅の周りで避難していても、どうしようもない感じでした。

当時は大きな余震がくるという噂もあったので、一刻も早く神戸の街を離れないといけない、そう私は強く思っていました。

もちろん地元には子供時代からの友人や知人が多くいます。

全員の家が壊滅したわけではなく、軽い損傷で済んでいる友人もいました。

なので、そこから離れるというのは、生まれてから20数年間住んでいた街を捨てるということになります。

しかし私はその当時若かった。

20代前半の学生で、むしろ「新しい環境で暮らせる」と喜んでいたのです。

離れたがらなかったのは母親でした。

母親は神戸の街で生まれ育って、40数年間(当時)同じ町で暮らしてきたのです。もちろん母親の両親や親戚も多くいました。

父親は別の地方から就職のために引っ越してきたので、そこまで町に愛着があるという感じではありませんでした。

むしろ会社が大阪にあったので、通勤するのに便利な大阪に越すことを望んでいたと思います。

私や兄弟は皆若く、どちらかといえば父親よりの考え方でした。

なので、実際に神戸の街を後にするときに、父や私たち兄弟と母親との間に見えない壁ができていたと今では思います。

私自身は仲の良かった友人も無事でしたし(中学時代のクラスメートの一人は亡くなっていましたが)、幼馴染の多くは別の地方で下宿生活を送っていたので、少なくとも自分の周りに関しては地震で失ったものはとくにないと感じられたのです。

それは私の兄弟や父親もそうだったでしょう。

母親だけがまた違った感覚で神戸の街の有様をとらえていたと思います。

震災で失ったこと、得たこと

比較的無事だった家族の間ですら見えない葛藤があったのだとすれば、近親者で犠牲者を出したご家族が感じる思い、ら悲しみの思いは言葉に尽くしがたいものがあると思います。

両親の知り合いの息子さんが地震で家が倒壊した時に家具に挟まれて逃げることができず、亡くなったということを震災後少しして聞きました。

両親はそのご家族と親交が深かったので、その知らせを聞いたときはかなりショックを受けていました。

私は子供の頃に少しだけ顔を見ただけなので、そこまでの思いや感情は湧きませんでしたが、それでも見知った人が地震で亡くなるという事実はかなり重かったです。

私や私の家族が震災で失ったものは、家やお金といった「物」はもちろん、私と兄弟・父親は「ほんの少しの思い出」、母親は「幼いころから慣れ親しんだ故郷」になると思います。

とくに母親は新しい住居に移り住んだ時も「戻りたいなあ」と常々言っていたので、あのときよりも年を経た今でもその思いは残っていると感じます。

逆に震災で得たことといえば、少なくとも私に関しては「新しい環境」「新しい環境で作った人間関係」にあたるでしょうか。

当時は大学生だったので、震災の特例で特別に学校の寮に住むことができるようになったので、そこで得た友人は今でも交流があります。

そしてもう一つ大きいことが「震災の経験」とでもいうべきでしょうか。

地震の経験、それも町全体を破壊するほどの大型地震を経験することは、普通の人生ではあり得ることではありません。

多くの命や財産を奪った大震災は悲しみと苦しみを神戸の街にもたらしましたが、そんな中で本当に幸いにも生き延びることができたというのは、何かの意味があるのではないか、と震災後からしばらくしてしみじみと感じるようになりました。

震災直後や一年かそこらの間は、自分たちが生き延びること、生活の基盤を再建することが最優先だったので、そこまでの思いには至りませんでした。

しかし少し落ち着いてあの頃のことを思い返すようになると、そういった「生き延びることができた幸運と与えられた命の使い方」のようなものを考えるようになり、自分なりに色々と思いにふけったり、ちょっとしたボランティアに参加するようにはなりました。

とはいえ、やはり自分の生活が優先されがちで、そういった「難しいこと」「悲しいこと」はどうしても過去のこととして、あえて見ないようにする日々もありました。それは今でも変わるものではありません。

それが私自身の弱さなのか、それとも人間としての当たり前の感覚なのかは分かりませんが・・・・

でも時々振り返ることがあります。

失った故郷の町。

今は別の人が住む子供の頃の家。

もう二度と戻らないだろう、懐かしい路地や公園。

学校時代をともに過ごした友人たちとの思い出。

そして震災の瞬間とその後の避難生活の日々。

忘れていたと思いがちでも、ふとするときに甦る瞬間があります。

それは悲しいとか、苦しいとかの感情を伴ったものではなく、あくまで「風景」。

それもこれも、私が被災当時に「若かった」せいでもあるでしょう。

その後の生活を、今に至る道筋をつけるために自分なりに懸命に生きてきた時間が、過去の記憶を薄らがせているのかもしれません。

しかし神戸の街で長い間、生活や思い出を紡いできた方々にとっては、私は「風景」にしかとらえていないかつての思い出を、深く色濃い感情を伴ったものとして捉えているはず。

私も当時の両親の年齢に近くなった今になって、ようやくそういった思いを少しは感じ取ることができるようになってきています。

それが震災後26年を経て「得た」ものだとすれば、人は時間を経過することでしか分かりえない何かがあるのかもしれないと感じることがあるのです。

今年も震災の集いに行ってきました

26年目の今年も毎年行われる阪神淡路大震災の追悼の集いに参加しました。

今年はコロナ感染の危険があるので、そこまで多くないかなと思いましたが、去年よりは少し少なめな感はあるものの、それでも大勢の方が集まっていました。

ろうそくに火をつけたり、灯篭の炎の前で手を合わせていたりと、それぞれが思い思いの追悼の意を示されていたと思います。

私も合掌して黙祷を捧げ、犠牲者のご冥福を祈らせてもらいました。

愛の一文字。

この言葉を胸にこれからも想いや記憶をつないでいきたいと思います。

最後に

「震災の集い」の話を除き、今回は震災後26年を経て自分の中で変化してきた感情とか思いを吐露してみたので、少し分かりずらい内容だったかもしれません。

今回の記事ではもちろん自分の中にある「震災後」の思いをすべて語れたわけでありません。

むしろ言葉にできない部分が多いといえます。

多くの犠牲者を出した阪神淡路大震災は、当時の神戸の街に住んでいた人の生活を大きく変えました。

それが良い方向なのか、悪い方向なのかは分かりません。

もちろん自宅や職場で被害に遭われたり、犠牲者を出されたご家族の方にとっては忌まわしい出来事でしかないでしょう。

震災後26年経っても心が癒えない方が多くおられると思います。

その一方で生活の基盤が変わることで、前向きに生きるようになった方も少なからずおられます。

何が良くて、何が悪いということはなく、人ぞれぞれの震災後があるということ。

そしてそれはあのときの震災の被害や犠牲の上に成り立っているということ。

その思いを忘れないことこそが、あの震災を考える上でとても大切だということ。

私自身はこのブログを続けることで、かつての経験や新たに得た知見をより多くの人に知ってもらい、今後起こりえる災害への備えの一つの参考になればという思いがあります。

そしてそれがあの大震災を生き延びた理由の一つではないかと思うように至っています。

それが正しいことなのか、間違えていることなのかは分かりませんが、できる限り自分の伝え得ることを今後も続けていきたいと思っています。

その内容が一人でも誰かの役に立てることを信じながら・・・

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