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防災と災害について考えるブログ

オランダ商館長が見た「江戸の災害」感想レビュー【防災本】

2020年7月13日

江戸時代に日本に滞在したオランダ人の「災害見聞録」本です。

著者は日本の国際日本文化研究センターで准教授を務めるフレデリック・クインスさんで、解説を担当しているのが、フレデリック氏と同じ研究センターの同僚であり、映画「武士の家計簿」の原作者であり著名な歴史学者でもある磯田道史さん。

私は磯田さんの前著「天災から日本史を読みなおす」での災害についての記述が良かったので、今回この本も期待して購入しました。

【津波・地震】歴史と天災、ドローンが果たす災害救助の可能性について

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メインの著者はフレデリックさんで学者さん風に文字量が多かったですが、随所に挟まれる磯田さんの解説がそれに味を添えていて、全体的に読み応えのある内容になっていました。

火災の都市だった江戸

当時、鎖国体制だった日本と貿易ができた唯一のヨーロッパの国が「オランダ」。

本の内容では、江戸幕府が外国との貿易のために長崎に設置した出島(出入国を管理しやすいように埋め立てた日本初の人工島)に駐在したオランダ人商館長が、毎年一回の将軍との謁見のために訪れた江戸で遭遇した火事や地震や、長崎での噴火などの自然災害の様子が克明に描かれています。

当時の生々しい記録を歴代のオランダ人商館長が記録にとっており、それを300年後に歴史研究者が発見して書物にできたということ。

序盤は初めて江戸に謁見に来た商館長が遭遇した江戸の大火についての記述です。

その火事は「明暦の大火」と呼ばれ、1657年3月2日から2日間に渡って江戸の市街を焼き尽くした惨事になっています。

出火の原因ははっきりとは分かっていませんが、発生した火が瞬く間に市街に広まり、大勢の避難民と犠牲者が出て江戸は大混乱に陥ります。

将軍に謁見するために江戸に滞在していたオランダ人の一行は、幕府の役人の手助けでなんとか難を逃れます。

そのときの様子をオランダ人は詳細に書き残しているのですが、解説と共に述べられた中で記憶に残ったのが、

・人々は車輪付きの木製の台車で荷物をもって逃げていた

・市街に捨てられた台車が高く積み上げられて避難民の移動を制限したために、大勢の被害者が出た

・街の区画ごとに木戸(門)が設置されていて、避難民の移動を妨げた

・持ち出せない財産物を保管するために土蔵や地下の穴倉に収納していた

というところです。

台車に荷物を運んで逃げるのは、現代でいえば車にあたります。

確かに荷物を運搬するには便利ですね。

ただ上にも書いたように、台車のために災害時の避難が滞って犠牲者が逆に増えたため、火事の多かった江戸ではこれを法令で禁止します。

逆に街の区画ごとに設置された木戸(門)は泥棒や不審者などが逃げないように設置されたものなので、このために災害の避難が妨げられたとしても幕府は最後まで廃止を考えなかったようです。

土蔵は今でいうところの倉庫。

壁に粘度や味噌を塗りつけて火災を防ごうとしたようですが、耐火煉瓦で覆われているわけではないので、火事が迫ると焼け落ちることが多かったようです。

そのために地下室を掘って貴重品を収容し、砂袋で入口をふさいで家主は着の身着のままで逃げるのが通例だったとか。

でも火事が収まるといち早く帰らないと、泥棒に侵入されて中の物を盗まれてしまうので、このあたりも現代の被災地の状況と似ているところがあると感じました。

江戸時代の消火法とは?

よく時代劇やドラマでも描かれていますが、基本的に火事の消火は「建物を打ち壊す」ことだったと言います。

江戸の街は家々が密集していて、下町だと長屋になっているので、一度火災が発生すると木製の家はたちまち燃え移っていきます。

なので火災が発生したら建物を壊すことで、火の原因そのものを取り除いていくようになっています。

時代劇ドラマの暴れん坊将軍で、北島三郎さんが演じる「め組」の親方も、火事が発生するたびに打ち壊しにいっていた消防団のような存在だったのでしょうね。

というのも、当時は今のようにホースがなかったので、水を街中に引っ張って来る手段がなかったからというのもあります。

さらに江戸には幕府への忠誠の証として、日本全国の大名が夫人や息子を屋敷に住まわせたり、幕府や各藩同士と折衝を行うための各藩の役人が駐在する施設などが多くあって、彼ら相手の商売(料亭や市場、大工、工芸品など)が盛んになっていました。

そのおかげで仕事が常にあり、全国から職を求めて大勢の人が江戸に殺到していたのです。

落語などでよく出てくる八つぁん、熊さんなども、そうした江戸の下町の職人だったのだと思います。

そんな彼らが住むための住居が家賃の安い長屋で、しかも人口が多くて密集しているために、火事や地震の際は大きな被害が出てしまうのです。

消火用のポンプは1700年代初頭の8代将軍吉宗のときに(まさに暴れん坊将軍だ!)、当時すでに消火用ポンプを国で使っていたオランダに幕府から問い合わせがあったことが記録に残っています。

明治時代まで日本で使われたポンプの絵を見ると、17世紀前半にオランダで使われていた旧式の消火ポンプになっています。

木製でホースのようなものはなく、てこの要領で水を出して火消しの体にかけることが目的だったようです。

つまりは基本は水で火を消すのではなくて、あくまで建物を壊して類焼を防ぐというのが、江戸時代を通じた消火法になっていたようですね(大名屋敷や江戸城などに対しては水での消火が行われていたと思います)

地震におののくオランダ人商館長たち

記録では何人もの商館長が災害に遭遇した内容を詳細に書き残しています。

その中でも多かったのが火災に続いて地震です。

特に江戸時代で起こった「元禄地震」は、1703年12月31日の午前2時ごろに関東地方を襲った巨大な地震で、マグニチュード7.9から8.5と推定されています。

江戸はもちろん、近郊の都市でも大きな被害が出て、建物や人の犠牲者も数えきれない規模だったようです。

当時の長崎の出島でも揺れはあったようで、倉庫などでも被害が出たと記録があります。

ちょうど江戸の将軍に謁見する時期と重なっていたようで、折衝の結果、江戸行きが決まっていました。

江戸に行くまでの道程で見た被害の大きさにオランダ人は驚愕するとともに、日本人独特の反応にも驚きを見せています。

日本人の態度についてタント(オランダ人商館長)が書き留めた「各所で遭遇する悲しい災害を見るたびに指をさして、軽々しく大笑いする」という行動は、決して悲しみを軽くとらえることを意味していない。笑うことは、災害による精神的損失を癒すための一種の自己防衛機能であると筆者は考える。絶えず起こる震災や火災に対して、江戸時代の日本人は現実を受け入れて、耐え忍ぶしかなかった。一方、このような甚大な災害の痕跡をはじめてみたタントは、この被害状況に心を揺さぶられた。悲しみを表現すべきであるという倫理的認識を強くもっていたタントは、日本人の心情や行動の裏にあるものは理解しようとはしなかった。

この記述は本書の中で最も印象深かった部分でした。

なぜならこうした反応(笑う)は日本人独特のものであり、時を経た今でもその傾向は強く残っているからです。

昔に比べて技術が発達したことで、救える命や被害の最小限化は成功していますが、それでもここ数年の災害は過去にないレベルで激化を増し、かつてのように成すすべもない状況に近づきつつあります。

もし江戸時代のように災害に対して手も足も出ない状況が再び来るのであれば、オランダ人商館長が見た日本人独特の表現方法がまた濃く現れるのかもしれません。

もしかするとタントが見た「笑う」は「大笑い」ではなくて「力なく笑う」ほうに近かったのではないでしょうか。

人間、どうしようもない状況に陥れば、もはや笑うしかなくなりますから。

人間の手に余る自然災害が少なく、人の力で自然を克服できる環境に置かれたヨーロッパ人には想像は難しいと思います(地震や噴火の多いイタリアあたりは別でしょうが)

長く続いた肥前長崎地震

本書で最も被害の大きさが読み取れる災害が、長崎で発生した火山の噴火と地震、それに続く津波です。

これはちょうど長崎に常駐していたオランダ人の居住地域を直撃した災害であり、当時の商館長は恐怖におののいて建物から逃れて中庭にテントを張って過ごしていたといいます。

噴火から始まり、細かい地震が絶えず続く状態(1792年から1週間続いた)、最後には2度の強い地震とそれに続く津波で島原や熊本で万単位の犠牲者が出たと言われています。

山体崩壊で大量の土砂が有明海になだれ込んできた衝撃で10メートル以上の高さの津波が発生した。津波の第1波は約20分で有明海を横断して対岸の肥後天草に到達した。大量の土砂は海岸線を870メートルも沖に進ませ、島原側が高さ6-9メートル、肥後側が高さ4-5メートルの津波であったと言う。肥後の海岸で反射した返し波は島原を再び襲った。津波による死者は島原で約10,000人、対岸の熊本で5,000人を数えると言われている

wikipedia「島原大変肥後迷惑」より

出島の商館も大きな被害を受け、倉庫や建物が倒壊したり、壁が落ちたりして、その修繕に大きな費用が発生したという生々しい記述もありました。

商館長が地元の大工に見積書を求めて受け取ったところ、請求料金があまりに高額だったので値切ろうとしたら「その値段では修繕は無理」と断られて、しぶしぶサインしたというくだりがあり、ここの流れは今にも通じる雰囲気が伝わってきて面白かったですね。

当時のオランダはインドネシアや東南アジアに貿易会社を持っていて、長崎のオランダ人はその出先機関という形になっていました。

スペインやポルトガルのように国家が貿易を行うのではなく、会社という組織の運営だったので常にコストの問題があり、歴代の商館長は災害による建物の整備や、江戸での将軍の謁見に関わる費用などの経済的な問題に常に気を配っていたことが興味深かったです。

少し話は脱線しますが、戦国時代に日本に訪れた最初のヨーロッパ人であるスペインとポルトガルは、日本にキリスト教を広めて、最終的に日本をキリスト教国にしようと企んでいたといいます。

そのために九州の大名をキリスト教に帰依させて、地元の日本人を奴隷にしてヨーロッパに送っていたということもあったようです。

先日見たNHKスペシャルでの放送では、スペインやポルトガルの植民地だった東南アジアで取れる「銃弾の原料」が目的で宣教師の領内の布教を許していた織田信長でしたが、すでに両国の企みと危険性に気づいており、彼の死後は豊臣秀吉が全面的にキリスト教を禁止する触れを出して、その企みを止めたということになっています。

NHKスペシャル「戦国~激動の世界と日本」

その後、新たに来訪したイギリスやオランダの目的がキリスト教の布教ではなく貿易だったこと、徳川家康が江戸幕府を開いてからその2か国を重用したこと、逆に家康に政権を奪われた豊臣家がスペイン・ポルトガルと結んでいたことを考えると、当時の日本で起こっていたのは「ヨーロッパの新旧勢力の代理戦争」的な匂いがするともいえますね。

ほかにも本書では「イギリス人は頑固で自分たちが良いと思うものを強引に売りつけたため(羅紗や毛織物)、日本との貿易から撤退する羽目になった。オランダ人は商売上手で相手の市場を研究して望まれているものを売るため、江戸時代の貿易を独占することができた」と書いてあり、マーケティングの大切さは時代と国が違っても変わらないんだなあと実感しました。

まとめ

日本列島は災害が絶えない地域です。

火山帯に位置するために地震が多く、台風も南から定期的に襲来して大きな被害をもたらします。

最近の豪雨では「線状降水帯」による雨量の増大が各地に川の氾濫や土砂崩れをもたらしていて、地域住民の生活基盤を大きく崩しています。

科学的が研究が進んでいずれ台風や豪雨、地震のメカニズムが解明されていく日もくるのでしょうが、それまでは水際の対策のとらざるをえません。

その知恵の一つとして、過去に起きた災害の研究や経験を活かすことも防災の一環だと思います。

本書もその一つとして、ぜひとも多くの人に読んで欲しいと思います。

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